小僧日誌 その十六

当時の肺結核に対する考えは偏見に満ちたものだった。肺結核は空気伝染で、罹れば死病とされ人から敬遠された。仕事どころか周りの人との接触も不可で自ら立ち去るしかなかった。石川啄木樋口一葉正岡子規滝廉太郎など肺結核で夭逝した偉人賢人は多いが、自分を重ねるまでもなく、肺結核を告知され、生れて初めて死生観を感じて、死が恐ろしく、素直に受け入れる度胸もなかった。「人生に敗れた」と思ったとき、?自暴自棄になる。?自殺する。?これをバネに成長する。考えたけれど答えは出なかった。誰に救いを求めても自身で悩むしかなく夜も眠れなかった。けれどこの時点で結核を知っていたのは社長と叔母だけ・・仕事関係、友人にも知られたくないので、田舎の父の療養という理由で、こっそり逃げるように会社を後にした。病院からの紹介で入院先は千葉の稲毛にある額田病院・・当時の稲毛海岸は白砂青松の美しい浜辺で、丘の上の松林にある病院からは六曲一双の屏風絵の景色だった。この景色がどれほど患者の心慰められたか、思い出すごと目頭が熱くなる。(現在は海岸を埋め立てられマンション街の殺風景) それはとにかく入院にもお金が必要だが、治療費は保険が効いて残りの費用は叔母が出してくれた。自然気胸(ききょう)を治すには、とにかく絶対安静にして穴の塞がりを待つのが治療法らしく、その頃パスやストレプトマイシンなどの良薬が出て、結核の完全治癒の見通しもあり少しは安堵したが、皆に嘘を付いた入院なので見舞い客も無く孤独の日々が続いたが、今までの歩んだ自分を見つめ直す時を与えられたのは良かったと思う。病院の図書室は書籍も多く読書する機会があったのも不幸中の幸いだった。しかし仕事、友人、家族など全ての人から隔離され、社会そのものが闇に思えたハリネズミの自分を見た。病状が良い方向なのか悪い方向なのか、退院出来る見通しを先生や看護婦に聞いても、ただ首をかしげるだけで、絶望感に打ちひしがれていた。結核患者は、ただ食べて寝て薬を飲んで、あとは運任せ的な療養をするしかなかった。栄養を取るために多くの患者は病院食のほかに肉や魚を買って食べていたが、小僧はそれも叶わず惨めな思いだった。それでも患者同士で顔見知りになって、同病相憐れみ、気持ちの通じる人も多かったが、親しくなった人が助からず天国に召されたときは無性に悲しく空を見上げた。