小僧日誌 その十七

病院の夜の松林は恋の天国だった。明日も知れぬ身となれば歌舞伎の「道行き」のようで、恋を遂げようとする命の燃え方のしたたかな行為は不謹慎でも看護婦も見て見ぬふりをした。人生は二度とないから、命も限られているから、不幸にも先の見えない患者には遠く過ぎ行く生涯に恋という懸け衣をかけていた。療養の甲斐なく病院を搬送車で出ていく場も悲しかった。良寛は「裏を見せ表を見せて散る紅葉」と詠ったけれど、人間は死に面したとき、全てを晒す。若い最中は死の意識なんて無かったが、命の有限に気づくのは入院体験で初めて実感する。しかし悲しいことばかりでなく、患者の中には大学教授、医師、画家、小説家といった優秀な人が入院中で、それぞれに教えを乞うて良い勉強をした。とくに二人部屋になったときの原子力の先生は原子の原理や数学のことなど一から手に取るように説明してくださって貴重な知識をいただいた。入院中のある日、ソ連人工衛星が初めて宇宙を飛んだが、その仕組みを解説してくださったし、病気を除けばワンツーマンの体験入学のような有難さで、これは誰も経験出来ない事柄は入院も悪くなかった。そして何より読書の時間が満たされるのは嬉しかった。島崎藤村千曲川旅情の詩を毎日口ずさんだ。「昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ この命何をあくせく 明日をのみ思いわずらふ」 それでも社会から隔離され見捨てられた寂しさ、独り身の切なさは耐えられず静かな夜は涙が出て、とても悲しかった。入院して一年余りが過ぎていた。母からの手紙に「田舎に帰って、しばらく静養したら」と書かれてあったが、矢も盾もたまらず医師に相談したが自分の目を見るだけだった。結核は完全な完治の区切りが無いらしい。しかし曲がり角の決断を促してくれたのは皮肉にも結核だった。もう開き直るしかない。所詮人生は“運”と諦める。俺は帽子屋に進むしかない。人生は自分だけのものと言い聞かせた。そして退院を申し出、半ば強引に病院を後にした。