小僧一人旅 その四

向かいの長屋の一軒は年寄りの帽子の裁断師で仕事を頼んだ。年寄りは内縁の夫婦で、小僧が以前からお世話になった人なので、安心して留守番役を頼んで集荷や配達に出かけることも出来たし、何かと仕事や生活の面倒掛けたことに今も感謝の念は消えない。お爺さんは古くからの帽子屋だが戦後満州から引き揚げた人で、満州奉天に住んでいた頃の話をいつも詳しく聞かせてくれた。奉天では帽子屋を営んで平和な暮らしをしていたそうだが、話では、敗戦間際に突然ソ連兵数人が土足のまま家に乱入し家中をめちゃめちゃ壊し、家族を脅し目ぼしいものを強奪したという。命からがら日本に逃げてきた話は臨場感溢れ、今も忘れない。「俺らは途方に暮れた難民で、引き揚げ列車はいつ来るか分からない。乗ったところで果たして港に着くか。列車が走り出してもよく臨時停車した。匪賊が来たからと停まり、燃料が尽きて停まり、そのたびに難民たちは列車から降ろされ百姓家の家畜小屋で牛、馬、豚と一夜を明かした・・」ようやく日本に辿り着いた喜びを耳がタコになるほど聞かされた。お爺さんは亡くなるまでロシア人のことを「ロスケ」と呼称していた。当時の職人さんは戦地からの引揚者が多く、小僧は仕事の合間に外地の様子を聞くのは好きでアジアのあちこちの町の風景や住人たちの交流の話は、生きた歴史と地理の勉強をして、まさに温故知新だった。戦争はあってはならないけれど戦争からも学んだことが多いのも事実だ。戦争を知らなかったら今より弱く愚かしく自己中心の人間だったに違いない。