小僧一人旅 その五

火の車も出発して二年目に入り漸く帽子稼業も軌道に乗り始めていた。商売だから当然に営利を目的にし、利潤が出なければ意味がない。昼間は得意先に注文と配達。夜は千葉や埼玉に住む職人宅の集荷で朝から夜遅くまで休みなく働いたが、商いの伸びる喜びは何に代え難い。商売は植物の種のようで、どこで根付き、どんな木に成長するか分からない。美しい花もあれば、実もある大木もあれば、日陰で萎れてしまう苗もある。商いも、植物も、全て持って生まれた運で幸不幸の岐路が分かれていく。当時の企業の大半は戦後間もなくの昭和20年代に創業した会社が多く、したがって大正生まれの成功した人は、千載一遇の商売の運をものにした。小僧が独り立ちをしたのは昭和30年代の後半、世間は落ち着きを取り戻し流通経路も殆ど決まり、違った路線を歩まないと生き残りが難しい情勢はアメ横に目星を付けたのは正解で、こまめに訪問し、特殊な注文もこなした。アメリカから輸入(当時輸入品は高かった)の帽子も見様見真似で製品化し、しかも現金取引を頂いた。カストロ、マリーン、ウエスタン、アポロキャップ等、当時の帽子問屋で扱っていないものを試行錯誤しながら作った製品なので時間も惜しいほどで、昼間は学生アルバイトも使って仕事に没頭していた。特にアポロキャップは帽子に刺繍するのが売りなので刺繍屋と交渉した。それはアポロキャップを量産するには業務用刺繍ミシンは絶対不可欠で、しかも機械の価格が、同時に20台のミシン自動の刺繍機は約800万円!ここは賭けどころ、商い勝負に出るのが「仕事人生の王道」と考えた。得意先、仕入先、職人の確約を得てアポロキャップの量産に舵を切った。刺繍屋と共同で預貯金全て叩き、残りは月賦で一か八かの関ヶ原だった。