長寿社会 その二

昔の歌の仲間が亡くなって葬式に出かけた。ボクと同年で長く脳梗塞を患っていたが家族の方の介護の大変さを知る。日本の葬式は大抵が仏教だが、いつも退屈なのは読経で何を話しているのか何の意味なのか、さっぱり分からない。キリスト教のように分かりやすく「聖書」を作らなかったのは仏教の怠慢だろう。ご本尊であるお釈迦様が経典を一冊も書いていないらしく、弟子たちが釈迦の死後にお釈迦様はあれこれ言われたと、現地のアーリー語の教典が作られ、それをサンクリット語に訳されインド全土に釈迦語録として広められたという。それを三蔵法師西安からやってきて中国に持ち帰って翻訳する。そこでインド語から漢文になる。現代の同時通訳が無かった時代に漢字に転換するという翻訳の作業はいかに大変だったか、想像を絶するが反面、かなりいい加減で、こんな感じだったかな、の感覚だったし自分の意見や思想も経典の中に相当に入っているだろう。つまり初めの釈迦の語録とは相当に歪められていると思う。話は飛ぶが外国の歌も日本語になれば違ったものになる。 例えばベネズエラのMoliendo Café(コーヒーを挽きながら)この歌は奴隷が夜中に牛とコーヒー豆を挽く哀しい歌だが♪恋を忘れた若者がコーヒー飲んだらたちまち娘に恋をした原曲と全然違う意味の歌詞で西田佐知子が歌ってヒットした。インドの古い経典を中国語訳から全然違うのではないか・・そもそも南無阿弥陀仏も何妙法蓮華経も意味不明で通る。ボクが亡くなったら経は要らない好きなモーツアルトを聞きたい。罰当たりな無信心のボクを許してくだされ・・