隠居の独り言 32

人生も第4コーナーを廻って今は趣味で弾き語りを楽しいが今は八十路を振り返って、様々なジャンルの音楽を思い出す。この世に生まれ祖母や母が唄った子守歌がいつも傍にあって、ラジオもテレビも無い時代では子守唄が唯一の睡眠剤だった。孫たちの幼い頃に童謡を唄えたのは母達のおかげしかない。あの頃の子供達は歌をよく歌ったものだ。田舎の畦道でも、街の横丁でも日本全国が子供達の歌声が満ち溢れていた。兵役から戻った父は毎晩のように寅蔵の浪花節を唸っていた。♪旅行けば〜駿河の国の茶の香り〜名代なるかな東海道〜歌を通して清水次郎長一家の任侠話を知ったし、股旅物の唄もよく聞かされた。父は伊那の勘太郎の唄も大好きで歌う。♪影か柳か〜勘太郎さんか〜伊那は七谷〜糸ひく煙〜〜・勘太郎国定忠治の子分で活躍したらしいが、ガキ仲間の遊びにすぐに取り入れられた。みなの衆、お控えなすって・手前生国と発しますは・・三度笠ゴッコの出だしのセリフで、三度笠のヤクザが旅に被るが顔を隠す格好もサマになった。あまりのヤンチャに母は心配して近くの教会へ連れていった。素直と言えば聞こえいいが仲間から足を洗った少年は程なく聖歌隊の一員になっていた。音楽について、音符の読み方、発声の仕方、声の合わせ、牧師さんは丁寧に教えてくれた。♪くすしきみ恵み、我を救い、迷いしこの身も立ちかえりぬ・讃美歌もこの頃にたくさん覚えたが戦争が益々進むにつれ讃美歌は相応しくないとして、歌うのも聴くのも禁止された。そのころ、母は小さなカフェを細々と経営していたが店内の蓄音機でボリュームを下げコンチネンタルタンゴなど聴いた。小さな喫茶店、ジェラシー、イタリーの庭、奥様お手をどうぞ・・子供心にも胸に沁みた。当時のレコードは一回聴いたら「針」を取り替えねばならず、当時を母が述懐して話をした。昭和18年頃になると戦争がますます激しさを増してきて、音楽どころではなくなった。住んでいた大阪から福島県の白河に疎開することにした。家も家具も蓄音機も何もかも整理して逃げるように一家は大阪駅を後にした。 続く