隠居の独り言 33

最近は時々戦時中のことが思い出される。ボクは大阪生まれ。大戦中の昭和18年の春のある日、大阪の町は空襲警報のサイレンが鳴った。アメリカ空軍の一機が大阪を偵察するため上空を飛んだが爆弾は落とさなくも大阪市民は恐怖に慄いた。高射砲が何発か空に花火のように炸裂し小さな雲が出来たが遥か上空を悠々飛ぶ敵機に届かず高射砲弾は無駄花だった。小学校4年のこの出来事に大阪のような大都会にいるのは危ないと家族は父の勤務する硫黄鉱山会社の採掘場のある福島県白河に疎開することになった。鉄砲の弾の原料らしい。1943年12月大阪を追われるよう汽車に揺られること一昼夜、家族5人がやっと白河に着いたとき、駅には雪が舞っていた。暖かい大阪と違って雪と寒さに体が震えたことを覚えている。硫黄会社は軍隊にどれだけ貢献したのかは知るよしもないが会社の世話で町のはずれの小さな一軒を借りることになった。家主は遠くに暮らしていたが家屋は相当に古く雨漏りもしたし、家の玄関、窓、戸など開け閉めのたびに軋んで嫌な音がした。戸の隙間風は冬の寒さをまともに感じたが、誰も口に言わず、それぞれが気持ちの中で、辛い思いを耐えているようだった。今に思えば惨めだが、それほどに情けなく思わなかったのは、当時は日本人みんなが貧乏で板切れ一枚の外は雪の舞う家に住んでいる人も多く小学生だったボクにとって都会暮らしより自然に触れられる田舎が体を思いっきり動かせて楽しかった。関西育ちに冬の寒さは身にこたえたが庭に杏の木があって春になると庭一面が桃色になって季節の替りに色を添えた。大阪は水道だったが井戸水の美味しさを初めて体験できた。戦時中の空襲の恐怖も体験したが仕掛け網で捕らえた雀や、卵の産まなくなった鶏を殺して調理した小学生が厭わずに出来たのも時代背景であった。現代では味わえない経験も、つい半世紀前頃までは日本のどこにもあった風景といえる。