隠居の独り言 34

福島県白河の西に聳える那須連峰に父の勤めの鉱山会社の硫黄採掘所があり一家は事務所がある白河の町に家を借りて暮らすことになった。家族は何もかも一からの出直しだったが、初め困ったのは言葉の問題で東北人には関西弁は通じない。情報化社会の今と違って当時は標準語さえ丁寧に話さないと意思の疎通が難しく当然のようにボクは学校でイジメに遭った。戦争の影響は学校にとっても普通の授業は殆ど無いに等しく校庭は畑になり生徒は近くの山麓の開墾で食糧増産を担った。生徒達が開墾に向かう時はスキやクワを担いで隊列を組み、行軍には歌がつきものだった。♪勝ってくるぞと勇ましく・・歌は苦しい道のりを助けてくれ、生徒の開拓地が待っていた。海ゆかば愛国行進曲ラバウル小唄、敵は幾万、若鷲の歌、麦と兵隊、同期の桜、父よあなたは強かった、きりがない。余談だが、最初の老人ホーム慰問演奏で「戦友」が最も受け一緒に歌えば老人は涙した。当時のホームは戦争体験者で時代の変遷は悲しいかな、もうホームに戦争体験者はいない。軍歌とは戦争のために作曲され、戦争のために生かされて、戦争が終わると終結する。言ってみれば使い捨ての歌だが、数ある軍歌のなかでボクが最も感慨深いのは「海ゆかば」・その哀愁の歌詞とメロディーのインパクトは戦争を象徴する。♪海行かば水漬すかばね、山行かば草蒸すかばね・・・万葉集に収められた大友家持の詩にメロディーをつけたが曲が持つ荘厳さと悲壮感が戦争への国民の共感を受けた。戦争のBGMだったし戦死者を弔う鎮魂歌としても歌われた。戦争に明け暮れた時を生きて苦しみを味わった人にとって「海ゆかば」は、あの時代だけの特別の歌といえるだろう。声を枯らせて無邪気に歌っていた軍国少年だったけれど、夢が覚めて気がついた。  つづく・・・