隠居の独り言 35

夏が近いと終戦を思い出すのも戦中の体験があまりにひどく、生きた80数年の人生の中で最も凝縮された時間だったと思う。詰まっているからだと思う。大阪から福島県白河に疎開しても東北地方も安全地帯でなく終戦間際に三陸沖に停泊していたアメリカ海軍の空母から毎日のように米戦闘機P51数百機が福島県中通り(県中部)を低空飛行で関東地方に向けて飛び、関東を攻撃するサイパンからの爆撃機の援護に向かっていた。戦闘機は飛行中にも人影を見れば容赦なく機銃掃射を浴びせ空襲警報が鳴る度に人々は森の中や防空壕に逃げ込んだ。機銃掃射のため同級生、近所の人、何人かが命を落とした。近くの郡山市が空襲にあった時は二晩も空が真っ赤に染まり恐怖心で凍えた。食料は飢餓状態で学校の授業も殆ど無く生徒達は校庭や近くの山を開墾した。しかも関西から東北に住み替えた者には言葉の壁と偏見が子供の心を苦しめる。でも鶏を飼ったことで産んだ卵をそれも一個を家族で分け食べた記憶は楽しくもまた哀しい。鶏も産まなくなった後の捌くのはボクの役目で文章にとても書けない残酷な行為も飢餓の経験の中では仕方なく気持ちも飢えには勝てない。夜は灯火管制で電気無しの暗闇生活は思い出しても暗い。そんなに極限の生活を強いられても、未だ日本が勝つと信じていた少年だった。学校から派遣された農作業から帰ったあの日、母から「戦争終わったよ」と告げられたが信じられない。信じたくなかった。日本が負けたなんて・・泣いた。無性に悲しく、虚ろになって涙が止まらなかった。終戦の日の思い出は悲しさと暑さと、ひもじさと惨めさと12才の少年の心を大きく傷付けた。何もかも終わった。小学校は殆ど通えなくても、憧れた軍人になるために陸軍幼年学校に入りたくて働きながら猛勉学したことも全てご破算になった。大きな夢が瞬く間に消えていった。これがボクの戦争体験記!強くなくては幸せになれない! つづく