隠居の独り言 37

疎開先の生活は関西から来た余所者に決して楽でない。農家も親戚もツテ無く、戦中の配給される食糧だけでは飢えを待つばかりの状態になる。父の硫黄鉱山会社は鉄砲の弾を作る戦需品生産だったため、終戦とともに会社は閉鎖される運命にあった。給料はストップになり、そのうえ、父は、しばらくは会社の残務整理で白河を離れることは出来ず困り果てた。もう白河にいる理由がなくなり、再び逃げるように白河を去ることになった。昭和21年夏、父は会社が残っているため、先に母、祖母、5人兄弟が、父の故郷である姫路市へ帰ることになった。超満員列車に揺られ暑い24時間もかかった汽車の旅だったが中でも苦労を和らげたのは、やはり歌を歌うことだった。歌が時代を蘇えり和ませる。田畑義男の「かえり船」が流行って、みんなで歌った。けれど祖母は関西に帰った安堵感と汽車旅の疲れで心身共に使い果たしたのか、姫路の家に落ち着いて僅か三日後に脳卒中で倒れた。鼻汁がとめどなく出て、うわごとを言い、皆のお婆ちゃんの叫びにも反応が無く、夜中に冷たくなっていった。大好きだったお婆ちゃんが、優しかったお婆ちゃんが・・愛する人の死を目前にして言葉も出ないショックは、現在になっても忘れられない。母とボクは慌てたが、警察に連絡して医者に来て貰い死亡診断書や火葬場や棺桶の手配などをしてくれた。母とボクは一晩中かかって祖母の遺体を綺麗に清め無事に棺桶に納めた時、無性に涙が止まらなかった。翌日ボクと妹がお隣から借りた荷車に祖母を乗せて火葬場に向かったが、妹は泣きとおしで付いてきた。(母は行っていけない習慣)妹に泣くな、と叫んだが本当は思いっきり泣きたかった。13歳の夏だった。