隠居の独り言 45

歳を重ねて思うのはゴールまで粋な余生でありたい。“粋”とは?と言って、定義があるわけではないので凡人に不明だが、粋の字解きすれば米偏に卆と書く。米の字は八十八であり、それを過ぎると九十になる。つまり粋の前提条件は九十歳まで長生きすることで、そのうえに健康でなければ“粋”な余生は送れない。閑話休題。昔の両親の教えでは、ご飯を食べる前の「いただきます」はお百姓さんが八十八の手間を掛け丹精込めたのだから一粒たりと粗末にしてはいけない。天の神さまと地の神さまと、ご飯になるまでに関わった全ての人たちのご苦労に感謝する言葉だと諭された。つまり“米”を卒業して、初めて“粋”に達するわけで“粋”の条件は「野暮にもまれて粋になる」の言葉の真面目一本の人生を送った人から本物の粋が生れ多少のアウトロー的なワルやアソビも粋の内であり、本物の粋人は善悪を知りながらも、けっして表面に出ないで人柄に表れる。講談や落語などに出てくる江戸時代の粋人とは、商家の若旦那や隠居などの世間離れした遊び人に醸し出されるものだそうだが、時代とともに粋人も変り言葉、格好、仕草で表れる。生活に追われる人、忙しい人、反面に、偉い先生、肩書きの多い人には粋は培われないし、どんなに多芸・多才な人でも、それを得意げにするようではキザであって粋でない。多くの失敗や恥の経験が身体に深く沁みこんだ人が真の粋人であると思う。それはおのずと自然にその人に滲み出るもので粋とは、競うことなく、己を曲げても相手を優先し、人格や人生観を尊重し、けっして迷惑を掛けず、ほどほどの距離を置いて謙虚に相手と接する。茶道の侘び寂びに通じると思うが、つましく生き、そっと身を引いていく。“粋”とはそんなものと思う。「爺は色々あったけど、いつも粋だったよなぁ」と言われりゃ本望!生きた甲斐があったというもの、そのような生涯でありたい。