隠居の独り言 58

夏が来れば思い出す。其の七。戦争が終わって、もう空襲の恐怖は無くなったけれど生活は以前より厳しさを増していた。父の勤めていた硫黄の鉱山は弾薬の材料で、軍需産業は戦争の終結で会社は解散し、当然に父は失業の憂き目で収入源は閉ざされた。学校では先生が今まで国威高揚の教育とは逆に民主主義の話だったがもうどうでもよかった。腹を満たすことが先決で学校より農家の手伝いが先だった。悔しいのは中学試験に落ちたことで筆記は自信があったが面接で稲の種籾から稲刈りまでの手順を細かく聞かれたが、農業関係は答えられず、翌日の掲示板に名前は無かった。涙がとめどなく溢れすぐに帰宅することができず夜を待った。夜になると寒い北風が吹き、お腹も空いて泣くだけ泣いた。もう白河に用がなくなった。というより白河から去りたかった。自分はやはり関西人、東北に馴染めなかった部分が多い。家族は父の実家の姫路にある空き家に帰ることになった。戦後の混乱の中、汽車の切符の購入もままならず、先に母、祖母、子供5人が帰郷したが、祖母は関西に帰った安心感と疲れのためか、三日後に脳溢血で亡くなった。優しかった祖母は二日目夜に突然倒れ一晩中うなされ汗をかき、鼻汁が止まらず看病虚しく帰らぬ人になった。帰郷して突然の事だったので狼狽えたが、医者を探し、医師の指示で母とボクと二人で祖母の遺体を清めたが「おくりびと」の仕事は人生で二度ない貴重な体験した。今のように葬儀屋がない時代、家族の一員が亡くなると残された者が死者を清めたことだろう。そんな時代だった。しきたりで母は火葬場に行けなかったが、少年は祖母の遺体を焼き場まで近所で借りた大八車で妹と二人で運び、後ろから妹が祖母の名を叫んで、泣きながら着いてきた。少年も泣きたかったけれどこらえた。妹よ、泣くな!!13歳の少年にとって無常だが、11歳の妹も同じだった。あの日も暑い夏の日だった。