隠居の独り言 59

夏が来れば思い出す。其の八。姫路の街も戦災跡がバラックから徐々に家が建ち始め徐々に明るくなった。それでも人間にとって、生きることは食べることだった。食料の配給制度はあったけれどあれは形だけのもので日本中が闇商品や闇米をめぐって生死を彷徨っていた。或る日、新聞に某判事が「人を裁く者がどうして闇米を買えよう」と配給食品以外は摂らず餓死したとの報道を耳にして官吏としての潔癖さに悲痛感と尊敬を覚えた。実家は多少の援助はしてくれたが日々の生活は家族で賄わなければならず恥も外聞も捨て働いた。最初は家にあるモノを農家に持って食べ物と物々交換をしたけれど、家にモノがなくなると、少年は近所から御用聞きをして交換物を大八車に積み農家に足を運び駄賃を貰った。そんなある日、農家のお婆さんから握り飯を頂いたが、そのまま家に持ち帰って家族みんなで分けて食べた。今も農家が好きになれないのは、皆が飢えている時、白い飯を食べ買い出し者を軽蔑し、偉そうにしていた。当時も今も役人は冷たいが法律上は米の買い出しが御法度なので見つかると没収される。しかし子供だと見逃してくれたので近所での御用聞きは重宝された。少年はこの頃から商売は儲かるという経験で覚えた。恥ずかしながら食べるため汚いことも厭わなかった。食料だけでなく、煙草の葉を買ってきて、庭で干して家族みんなで手巻きをした煙草は飛ぶように売れた。それは専売違反だが、そんなこと言っていられない。お金を手にすることがどれほど大事か、子供心にも本音が分って純真さが無くなっていったのも仕方ない。少年の学校の不登校は日常的だったが、それでも卒業式の答辞を読む栄誉を頂いたのは嬉しかった。担任の先生が家に来られて早稲田中学を推薦して下さったが、家の貧乏避けがたく東京の帽子職人に丁稚奉公に行くことにした。選択肢はもう無かった。夜行列車で旅立つとき、母は見送りに来なかった。母の気持ちを察すると今も胸が熱くなる。