隠居の独り言 60

夏が来れば思い出す。其の九。上京して小僧になったのは昭和23年14歳の時。東京大空襲で丸焼けになった東京の復興はまだ完全でなく、勤め先の浅草橋から「浅草松屋」のビルが見えていた。小僧は10人部屋の一部を与えられて仲間と共に寝食を共有したが、唯一自分の空間と時間が無かったことが辛かった。当時の世相は戦後の混乱が残り、帝銀事件下山事件三鷹事件松川事件の犯罪が多発し世の中は安定していなかった。日本列島にもキティ台風やケイト台風による被害が大きく夏は旱に苦しんだ年だった。町を歩けば同じ年格好の戦争孤児の少年たちが靴磨きで進駐軍の靴を磨き、戦争で負傷した兵がハーモニカを吹き、乞食が大勢、駅の近辺や、道路の端やで銭をせびっていた。赤線地帯、ヒロポンカストロ誌、パンパン、DDT、ストリップ、見るもの聞くもの全てが、14歳の少年には刺激が強すぎた。平成の人たちが聞いても言葉も意味さえ分からないだろう。小僧の生活については前にブログに書いたので省くけれど、給料も休祭日もなく一日中働き詰めの生活が出来たと思う。逆説めくが家が貧しかったからで、小僧仲間のほとんどが田舎の貧しい農家出身だった。世間は民主主義時代だがそれは公のこと。中では旧態依然のしきたりが厳然として、とくに上下関係が厳しく、先輩の炊事当番、洗濯、風呂番、繕い物、寝具の上げ下げなど、後輩の役目と定められた。それも苦にならなかったのは、何もかもが初めての体験で物珍しい興味と、若かった体力の故だったかも知れない。月一度の休日はおにぎり二つを懐に自転車で東京中を駆け巡るのが楽しみだったがどんな苦労もどんな貧乏も世の移りざまに若い目を向ければ希望の青春といえる。当時は東京も信号機は殆どなかったが通りは進駐軍ジープ、トラック、軍用車が行き交い大きな交差点では、進駐軍兵士が台の上で手信号で車の誘導をしていた。初めて見る西洋人による進駐軍の背の高いスタイルの洋服、帽子、軍靴など、カッコ良さが少年の目に輝いた。街には、ラジオからシナトラやキングコールの歌が流れ、アカ抜けしたジャズや西洋の音楽に、少年は感動した。意味も分からず英語の歌を口ずさむのが時代のバスに乗っている気分がした。一方人はみんなよく働いていた。貧しい日本が高度成長に乗る基礎固めの時期だったろう。