隠居の独り言 70

田舎から上京して二年後の1950年6/25日、朝鮮半島を南北に分ける北緯38度線で突如、戦争の轟音が響いた。その日に北朝鮮は韓国に向けて宣戦布告し砲撃を開始し、戦車部隊を先頭に北朝鮮が38度線を突破し朝鮮戦争が始まった。今現在の朝鮮問題の発端はこの日から始まる。早速28日に米韓軍兵站司令部が設けられ反撃を開始し、それと共に日本に直接調達で大量の物資が買い付けられ、その中に繊維の軍服、帽子の注文があり、景気が沸いた。奉公先の仕事も例外なく忙殺された。戦争特需好景気は業界の特別料理だったろう。紡績、鉄鋼関係には金ヘン、糸ヘン活況と呼ばれ、織物産業では織り機をガチャンと一回織れば一万円儲かって「ガチャマン景気」と呼ばれ、携わる業界全体が「糸ヘン景気」でみな顔がほころんだ。帽子メーカーは一社何万個の注文で猫の手も借りたい。職人たちは夜間も休日も返上し働いた記憶が今も残りボクの帽子履歴の中で最も忙しかった1950-1年がある。しかし空前の特需景気で儲け財産を残した人の一方で欲を出して別のものに手を出して破産したり、遊興して没落した人も沢山いて小僧は社会の勉強をさせられた。今に思えば帽子産業は当時が最も栄えた時期と思う。数年の特需が終わった後は、糸ヘンも急激に冷えた。しかし特需品で世界からはMade in Japanの技術と評判が高くなり、各種の企業が大いに潤うことになる。いわゆる高度成長期の到来で、人出不足で地方から中学卒の若者が「金の卵」として集団で企業が採用し待遇や給料の面も優遇したが一方で丁稚小僧という江戸時代から長く続いた徒弟制度が崩れる宿命で役所から使用人に対して一般サラリーマンのように労働時間と給与面の指導を受けて待遇も変わった。しかし昭和25年当時のボクは運悪く肺病に罹って入院生活もやむなく会社に随分と迷惑を掛けたが退院後は会社に席無く、これをチャンスで独立した。結局、生涯で一度もサラリーを頂くことはなかった。でも病を機に商いも出来て今がある。結果良し。