隠居の独り言 84

朝、おさんどんをする。ご飯にシラスとネギを混ぜた納豆、海藻類の味噌汁・・毎朝食べられる幸せを思い箸を運ぶ。昭和一桁生まれにとって、戦争末期から戦後にかけての最も食べ盛りだった飢餓時代に考えも及ばなかった朝食。当時は芋類もスイトンも贅沢だったし南瓜や茄子などはツルまで食べ野菜というのはどこにも生える雑草だから今、目前に並ぶ朝食は当時には想像外の高級食になる。飢餓も日々になると何でも食いものであればそれで充分。真夜中、遠くの農家の畑に野菜や芋など盗みに行った。罪悪感はどこかに置き忘れていた。ひもじさが先だった。田舎だったので蛇や小鳥を捕らえて食べたし、虫や蛙も小動物なら手当たり次第、餓鬼少年の胃袋に収まった。幸いに日本は四季を通じて自然が豊かで、草木が生え、海や川には動物蛋白源となる小魚や貝が生息していた。故郷の瀬戸内海の塩田跡で貝類を獲るのが日課であり家族みんなにとって一番の栄養豊かなご馳走だった。塩田跡への行き帰りには畑で胡瓜や茄子を盗み喰いし、浜では蛸や海鼠を生きたまま食べた。好きも嫌いもなく空腹のみが本能の証でゲテモノも不衛生など心になく生きる手段は理屈を遥かに超えたその日暮らしだった。一応政府は配給制度で米や魚の支給を定めていたが、あれは空手形に過ぎなかった。一日、何度食べたかも記憶にないし、どれほどのカロリー摂取も定かでない。ある日、近くの農家からさつま芋を頂いたことがあった。家族は芋を貪るように食べ久しぶりにお腹を満たした。お腹いっぱい食べられる幸せはこんなに喜びなのか、食べ盛りの少年は涙が出るほど満足感に溢れていた。でも満足感はその時だけで明日の保証はどこにもない。貪欲な本能、食べる手段、人間の生命力、辛さ悲しみを全身全霊の体験で知った戦中戦後の数年間であった。家族一同痩せこけた。食糧不足の栄養失調だったろう。それでも生きた。あれからウン十年、飽食を通り越して日本人のメタボを気にする人は数千万人とも云われる。自慢じゃないが、ボクはメタボなど気にしたことがない。それは少年期の食生活のせいで胃袋が普通の人より小さくなって胃酸の分泌も悪く、沢山食べられないし、間食もしない。いまさら、少年期の食べ盛りに満足に食べられなかったという「恨みつらみ」は無いけれど今にして思えば食べる感謝も、生きる喜び、嬉しさも、飢餓の経験があったからこそ、余計に心に沁みる。