隠居の独り言 122

読書週間が始まった。今年の標語は「ホッと一息 本と一息」秋が深まってくる。読書の秋というが何となく秋が相応しい。秋の夜長、若い時は就寝前に読書しながら寝入った夜だが、今はエッセーを書いたりFacebookを楽しむのが習慣になる。ボクの読書の始めは小学高学年の頃、戦争末期で学校は勉強よりも学徒動員の畑作りの開墾で授業時間は殆どなく空いた時間は出世の親父の残した本を読んだのが始めで訳も分からず藤村や漱石の文豪の作品を読み漁っていた。読書は必然的に何か書きたくなる。まず日記と手紙だった。手紙を書くのも恥ずかしながら恋文を書くことから始まった。恋文の参考にはバイロンやハイネの詩は必読で胸ときめく。初めて便箋に自分の気持ちを伝えるために書いては破り、破っては書いた恋文は、純粋な青春の巻頭の一頁だった。上京後も毎日のように故郷の父母に手紙を書いて投函し、父母もボクが心細い思いだろうと頻繁に返信してくれた。両親の手紙がどれほど心強かったか言葉に尽くせない。よく手紙は意をつくせないから話をするという人もいるが、正面に向かうと却って思ったことが言いにくいことが多い。手紙ならまず下書きを作り、よく推敲してからしたためる。感情が高ぶるときは文章も乱れまともなものは書けない。作文は、まず文章の種を考え下書きがあって完成させる。文章を書くのは人を高める効用ありと一人合点している。書いているときは一時的にせよ普段よりちょっぴりだけ良い人間になっていると自負しながら文章を綴っている。知らず知らずに恥ずかしくない自らの演出かも知れない。耳で聞く話より目で見る文章のほうが本心を表している。文章を書く作業は相手に話すより本音が出るものと思う。先日図書館で「手紙集」という本を読んだ。それによると昔の作家や芸術家は実にたくさんの手紙を書いている。漱石、鴎外、藤村、啄木、しかも長い文章で短編小説に匹敵するようで文豪は手紙を書くときも時間の経つのも気にせず相当なスピードで書いていたものと想像する。現代の作家は原稿用紙にペンで書くことも滅多になくPCのキーに打ち込むのが普遍的になったが、便利でいい時代になったとつくづく思いながら指を叩いている。書いていて思うのだが、以前は長い文章ほど書くのは大変と考えていたが、むしろ短い文ほど中身が難しい。今度生まれたら小説家になりたいと願う。自分の文章を戯画化できるのも素晴らしい。どんな世の中になっても文章の味付けは自分だけのもので、それがたまらない。「読書週間」が文章編になってしまった(+o+)