隠居の独り言 146

昔は粋な言葉の遊びがあった。その一つが都々逸。「七七七五」つまり26文字を基本に主として男女の情を歌詞にして三味線で合わせて唄う素晴らしく粋な芸だが今ではすっかり廃れてしまった。昔も今も異性にモテたい、愛されたいという願いは共通しているが都々逸というのは一種のラブレターまたは愛の詩で男女の機微や人生の哀歓を都々逸に託して相手に自分の気持ちを粋に伝える。「ヌシとわたしは玉子の仲よ、わたしゃ白味でキミを抱く」 洒落た都々逸で昔はアバンチュールを楽しんだというから粋なものだった。今はスマホのメールのアドレスを交換し指の操作の愛情表現だが簡略な言葉が多く、中には絵文字だけいうから実に味気ない。現代のアキバ系のお姉さんもいいけれど、やはり小唄や都々逸で料亭でお姐さんにモテたい江戸の男衆を想像するだけで楽しい。幕末の長州藩の志士・高杉晋作が、尊王攘夷の合戦の合間に遊女{おうの}に「三千世界のカラスを殺しヌシと朝寝がしてみたい」と都々逸を詠ったのは有名だが晋作の夭折は歴史的に実に無情で彼が天寿を全うし明治を生きたなら日本も素晴らしい国になった。男は強いだけが能じゃない。今やネット時代で通信は早いが中身が伴っていない気がする。ボク一応は初恋をしたが、通信手段や心の打ち明けは恋文を書くことしかない。恋文を綴るにはどれだけ素直に、どれだけスマートに表現する筆力で恋の行方に影響をする。だからバイロン、ハイネ、啄木の詩を読み漁って、恋文作りに夢中になった。でも恋文は青春期、大人は小唄、端唄、都々逸で粋な詞を創る。少年も上京しラジオで聞いたナットキングコールの「ラヴ・レター」「モナリサ」の甘い歌に痺れ意味分かず、いつも口ずさんでいた。「軽いつもりでラブしたけれど親の知らない怪我ばかり」青春時代。あれは遠い昔「軽いいびきが隣にあればただそれでいい八十路」今やスマホのラインで恋文も簡素で絵文字を貼り付け返事を待つ。これでいいのかなぁ?あの熱烈な恋も軽くなった気がしてならない。戦後「お富さん」も「粋な黒塀、見越しの松に仇名姿の洗い髪」も「あなたのリードで島田も揺れるチーク・ダンスの悩ましさ」も同様作詞・西条八十、作曲・古賀政男の豪華コンビによる都々逸の歌。「歌は世につれ世は歌につれ」という。粋な歌も途絶えてしまった。歌を歌うのは好きだが、最近は意味不明の詞の歌も多くなって、音楽自体も分けわからない歌が多いのも事実だ。懐古派でないが昔の歌のほうがいい。そして都々逸を見直したいと思う。