隠居の独り言 178

帽子屋一筋に通した人生も少なくなってきた。昭和23年春に上京して、帽子製造の職業に就いたのは帽子屋に嫁いでいた叔母を頼ったからだが小学校卒業期の父の言葉が大きかった。「お前は帽子屋になるといい。なぜなら帽子屋は景気がいいぞ。帽子屋は駅の周辺には必ず二、三軒はあって、大人も子供もみんな帽子を被っている。幸い叔母がいるし将来は明るいぞ」父に言われて少年は素直に頷き、未来の大きな夢を見ていた。たしかに住んでいた兵庫の田舎町も歩いている大人も子供も殆ど帽子を被っていた。上京した終戦後の物が不足している時代でも大人は中折帽子や鳥打帽、夏になればカンカン帽、そして学帽もあった。男たちのシンボルは帽子を被ることで子供たちも小学からに大学に至るまで帽子は必需品であり、生活に溶け込んでいた。昭和初期には日本人の冠帽率が実に95%だったいう報告もある。昭和の繁華街での写真は無帽は滅多にいない。父が帽子屋を勧めた気持ちが分かる。帽子縫製には長期間の修行が必要だ。単に帽子と言っても種類により製法が違う。例えば縫製を主にするハンチングと型入れを主にする中折れ帽や編むニット帽とは職人が違う。一人前になるのは普通、十年はかかる。根気のいる仕事で手作業を腕に覚えさせる。最初は裁断。反物を偶数に畳み裁断場の上に置き、形板を添え特殊な手包丁で裁断をする。裁断したものをミシンで縫う手順だが、その縫製が一番のポイントで帽子の「出来」の善し悪しの殆どが縫製で決まる。縫製は職人の腕次第で器用な人は上達が早く、その上に、きちんと仕事を手早く縫製するのが一流の職人といえる。小僧は職を身に付けるため朝早くから夜遅くまで働いた。朝の早いのは職人ばかりでない。当時の早朝の風景は陽の上がる前から豆腐、納豆、野菜、牛乳・・声を枯らせ売り子の声は下町の朝の風物詩で、田舎訛りもあった。今も長いお付き合いの人が多い。けれど最近は帽子の職人の仲間たちが激減した。そして後継者が存在しない。どの職人も根気が必須で現代の若い人には根気がない。職人が一日中ミシンを踏み続ける作業を見れば若者はそれだけで拒否反応を起こす。しかも休みなく働く親の姿を見れば後を継ぐべき子供の姿はもういないだろう。小僧で修行した時代はみんな貧乏だった。時代的にも職業の選択をするほどの職種もなく義務教育を終えて一部の裕福な家の子弟以外は丁稚の道しかなかった。時代が変わり、決定的なのは量産品は海外の安価な製品に変わり、日本の職人は仕事を奪われ風前の灯。日本は物を作るより考える時代に入ったと痛切に思う。今の若者は斬新なセンスがあるが量産の根気がない。帽子一筋に生きた絶滅危惧種のつぶやき・・