小僧日誌 その七、

奉公先には10数人の小僧がいたけれど、大抵は田舎の次男以下で家を離れねばならず、10代で故郷を出た者ばかりだった。「ふるさとの訛り懐かし停車場の・・」啄木の詩のように、各地から小さな手荷物と、地方の訛りを持って故郷の停車場を後に上京した。彼らの訛った言葉は珍しく新鮮で、故郷の話も楽しかった。でも思えば彼らの親御さんたちはどんな気持ちで息子を送ったのか。東京に出てどんな辛い生活が待っているのか。ウチの子が他人の家で奉公できるのか。家を出ていく子供の姿に親子の愛が張り裂かれる思いでいっぱいだったろう。後年、妹に聞いたが、自分の母も夜中に台所で泣いていたという。親心がしみじみと偲ばれる。だからこそ、いつか故郷へ錦を飾りたい。男の心意気は誰も一緒だが成功の階段は容易くない。人の生涯は遺伝子三分、環境三分、努力三分、一分の運で決まると云う。自分の遺伝子は、父の家が姫路藩の士族で母の実家は大阪の商家の娘だった。祖父は士族の“家”に縛られた古風な頑固さで、昭和の代まで跡取りの結婚相手は士族でなければならず、ために反対した父は勘当され、自分は私生児として母方に育てられたが、その実家も大阪の御堂筋建設の立ち退きで廃業の憂き目に遭い祖父も追うように逝った。母は華やかな時代もあったが「出会い」が人生を大きく変える。父を知ったことで、お坊ちゃん、おいとはん育ちの両親は、戦時中は哀れなほどに生活に苦しんだ。戦時中の父は鉄砲の原料の硫黄鉱山で働き、疎開先の福島で家族が暮らした。戦後、父の実家の姫路に帰ったが、実際に住んだ期間は2年少々で、従って自分には故郷が無い。母は後半「お前たちには随分苦労をさせたがカンニンやで」と口癖のように言ったのが今は懐かしい。父は戦後に肺を病み、母は54才のときスモン病に罹り、40年近くも寝たきりで92歳で神に召されたが不運な母だった。一分の運さえ無かったような父母の後半の人生は思うごと胸が痛くなる。自分の一つだけの親孝行は、老いた父母に新しいマンションで住んでもらったこと・・人間って何だろう、生きるってなんだろう。悩む時、亡き父母の人生を思う。