隠居の独り言 56

夏が来れば思い出す。其の五。昭和18年(1943)の秋、日本の敗色がますます濃くなって都会に住む人たちは空襲の危険から逃れるために地方に疎開が始まった。わが家も世相に漏れず父が硫黄を掘る炭鉱の会社に勤めていた関係で福島県白河に家族全員で疎開した。汽車で疎開する人が多く大混雑での家族一同の旅は東海道本線の大阪→東京→白河まで丸二日を掛けた。でもそんな中でも良い思い出は初めて見る富士山と、着いた白河で初めて見た積雪と旅館で初めて食べた熊肉のスキヤキで「遠くへ来たもんや」と感慨に浸った。温暖な大阪に比べて、白河の冬は寒く、夏は暑かった。借りた家の庭に杏の木が植わり春はピンクの花が咲き、秋には実がなって美味しかった。親戚も知人もなくて寂しく暮らしていた家族にとって杏は心の拠り所だった。転校した小学4年生に同級生から当然のようイジメが待っていた。「おめぇ、どっから来たんだ?日本人けぇ」「おぃの言葉、わかっか?」情報も少なく、関西弁しか話せない少年は、現地の子供にとって外国人だった。昭和初期は標準語も東北にあまり普及していなかった。他所者は、何かに付けてイチャモンつけられ軽蔑され邪魔者にされ、あげく殴られた。妹は不登校になった。これも転校生にとって一つの儀式のようなものだろう。彼らに大阪の少年は異邦人に写っていたに違いない。それでも少年の順応性早く、関西弁は時を置かずに東北弁の訛りに変っていた。少年は大阪の小学校で習った勉強は白河より早く同級生の少年を見る目も違ってきた。友達も増え自然相手の遊びを教わった。悪ガキたちはヨシキリ(小鳥)を獲った。ヨシキリは墓場の灯篭の中に巣を夜中に寺の墓に忍び込み、卵は丸呑みし、親は「鳥屋」に売り小遣いを分けた。悪ガキは蛇も捉える。蛇の穴は二箇所あって片方を煙で燻すと蛇が出てきて捕まえて「蛇屋」に売った。蛇の運命は皮は財布に生血は精力剤で飲まれた。鶏を飼っていたが卵を産まなくなると、近くの人に教わり少年が捌いて解体したが鶏を殺す残酷さも田舎では日常茶飯事で、食糧難だからこそ出来た。都会育ちの少年には何もかも驚きと新鮮の連続で、田舎の自然と風習を肌で感じた体験は財産と思う。当時の白河は美しい情景がいっぱいで今の季節、悪ガキたちと阿武隈川で遊び、魚とりには夢中で、夜は、蛙の合唱、蛍の乱舞、月の明り、星の輝き、戦争という厳しい事情の中にも得がたい経験は今に思えば戦時のマイナス面よりプラス面が蘇る。戦後になって何十年ぶりで白河を訪れたけれど、あの風景も、あの自然も、そこに「昔」はなかった。