隠居の独り言 171

明治の始め頃、外国からやってきた人たちは日本人の聡明さに驚いたという。どの階級の人たちも新聞を読み計算力もあって頭脳は世界のトップクラスの明晰ぶりに外国人は感動した。市井の住む裏の路地にも花が咲き人々は花鳥風月を愛し治安もよく四季の美しい日本は外国人にとっては理想郷の天国の情景を見た事だろう。「フジヤマ」や「ゲイシャ」は外国人の日本の代名詞だが景色の美しさと人情の優しさの誇る文化は日本人として故郷の自尊心の誇りと幸せをもっと意識していいと思う。日本史を知り、正しく理解することは言うまでもないが、数ある世界史の国のなかでも日本史ほど繊細で変化に富んだ国家像は無いと作家の司馬遼太郎も語っている。戦前の祝日、紀元節天長節明治節神嘗祭などは、どの家にも玄関に国旗を掲げ清々しい気分で日本人に生まれた幸せを思い、天地悠久を祝ったものであった。それが戦争で負けて以来、過去の日本の外国に対して戦前の全てが悪で反省と自虐ばかりの戦後の教育では、どこに愛国心が持てるのだろうか。有識者や教育者にも日の丸や君が代を否定する人がいるけれど国旗国歌は国家の象徴であり、もし対案があるのなら示して欲しい。世界のあらゆる人々は故郷の生まれた国を愛している。そして明治憲法教育勅語のどこがいけないのだろうか。それは法律を解釈する政治家の責任であって、例えば戦争の原因にもなった統帥権などは明治憲法の中にはどの部分にも入っていないし、外国製の現憲法にだって国を守る自衛隊の一章も入っていない。しっかりとした日本の日本人による日本のための憲法草案が急がれる。

隠居の独り言 170

出来る限り独り言を続けたいと願う。スイスの哲学者アミエルは著書の中で「生きるということは日ごとに快癒し、新しくなること、また自分を再び見出し回復する。日記を綴るのは孤独なものの友であり、慰め手であり、医者である」幾つになっても日ごとに新しくなるという精神のエネルギーに満ち溢れているのがいい。医学用語に「フレイル」がある。加齢と共に心身の活力、つまり運動機能や認知機能が低下し複数の慢性疾患の併存などの影響もあり生活の機能が障害され心身の脆弱性の状態をいう。フレイルを遅らせるには中高年辺りから運動、食事、睡眠など規則正しい生活習慣を心掛けるのはいまさら言うまでもないが、それでも齢を重ねれば体が衰え皺が増え、みすぼらしくなる。鏡でどんなに繕っても、そこには老いた顔という物質しかない。それは皮膚と肉と骨の衰えた集合体だが心の内は映らない。「風貌」という言葉は顔という物質+人生を如何に生きたか・仕事や稽古一途に生きている人の顔に年齢は感じられない。肉体の一部の顔ではなく眼に光がある。口元が切れている。人から見ても稽古一途が作っている姿格好はとても美しい。顔は齢でなく風貌であり「あの人、いい顔ね」と誰もが認める。年の初めに感じるのは、年齢は一年毎に増えても気持ちは、いつも甦りたいと願っている。作家・曽野綾子は「たまゆら」という題名の小説を書いている。「たまゆらの恋」ともいうけれど毎日電話を掛けあい休日は指を絡めて散策する恋ではない。一口にいえば思いだけが残って、永遠に実現しない恋のこと、いわゆる「忍ぶ恋」であり恋の中でも最高の恋と言う人もいる。古今東西、名を成した芸術家の殆ど「たまゆらの恋」を体験し名品を残している。ショパンのピアノも、ダビンチのモナリザも、西鶴浄瑠璃も「たまゆら」から生まれ後世の我々が感動する。「たまゆら」は未完の美学だが人生もたいていは未完のままで終わってしまう。人間が200-300年も生きると殆ど分かるから神さまは人の寿命を100年未満とした。でもそれでいいと思う。未練が残るのが人生の妙味で、完成に向かう夢があってこそ、歩くことができる。今年も歩みが遅くも明日を目指して歩きたい。

隠居の独り言 169

昨年末に近所の某材木屋が倒産し、夜逃げ同然に姿を消した。広い家に住み高級車に乗り材木屋は金持ち風情を装っていた。近所の商店街の何軒かが商品や飲み代が踏み倒されたという。どのような事情にせよ人を騙し、自らの享楽のため多くの人に迷惑掛けた行為は許されない。日本人のお金に対する道徳心は以前と随分と変わったように思う。今欲しいものがあれば自分が対価を今払えなくても手にしたい弱い気持ちが借金という地獄の入り口に抵抗もなく入っていく。以前は生きる基本の目標を持つということは滅多に借金をしてはいけないと親から教えられたし、ものが欲しければお金を溜めてから買いなさいと強く諭された。以前の風潮は「武士は食わねど高楊枝」で若い時は身を削ってお金を貯め、所帯を持ち、子育て、そして老後のために蓄えた。現代のように年金も健保も無い時代、将来に夢を持ち目的の哲学があれば、遊びごとや贅沢に借金は出来るものでない。今の風潮は、例えば結婚式の費用は親が負担し、家や車はローンで手に入れる。待つことのできない心根の先取りにはローンという化け物に精神まで食いつぶされて生きる目標も夢も望みも失くしてしまう。質素倹約を旨としていた日本人のお金に対する確固たる価値観はどこへ消えてしまったのか。若者の通念は砂上で道の基本の脱落としかいいようがない。膨大な国債と借金財政の国家予算が自堕落さを象徴する。来年の予算は収入60兆円なのに支出100兆円、しかも政治家先頭に国民も不思議がらない風潮に暗然としてくる。高齢化が進み高齢者がどんどん増え今4人に1人以上が65歳以上で、高齢者が病院に通ったり介護にかかる費用が国の財政を圧迫しているということであり、高齢者になれば、誰でも若い時より病院や介護にかかる必要は言うまでもない。高齢者層の医療費の自己負担は1割〜3割だから、残りは税金で賄わなくてならない。今は国民総資産が国債残高を上回っているので凌いでいるが、いつまでも続くわけでない。近い将来、社会保障、年金機構が破綻するのは必至状態で消費税を始め様々な税金がアップするのも仕方ないだろう。若者の失業対策、定年制の見直し、年金支給の繰り上げ、高齢者サービスの廃止、等々、暫くの我慢を強いられるが国が破綻してからでは遅すぎる。みんなで知恵を出したい。

隠居の独り言 168

皆さま、今年もどうぞ宜しく「独り言」をお願いいたします。「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」一休が詠ったとされるが人は桜の花が舞い散る様を見て足を止め、その美しさの反面に世の儚さを感じたりする。それは人の一生の儚いことを悟るようで桜花は散っても大樹は新緑に衣替えして四季を巡り冬樹を通し来春には再び花の宴をするが人の肉体は枯れれば再び甦らない。人生の四季は一回きり!改めて生きる喜びとその意義を大切にしたいと痛感する。さて正月恒例の楽しみの一つは箱根駅伝で普段はあまり見ないテレビから目が離せない。選ばれた21校の大学の名誉を担って死闘を繰り広げる。選手たちは与えられた区間をひた走るが、それは選手のレースに対する責任感と孤独との戦いと、駆け引きもあり強靭な精神力と頑張りに理屈を通り越した感動に胸を打つ。ランナーは私達の生きた教訓で、人は社会に生きる以上、前向きな頑張りと責任感を持ち合わせねば、失格といえる。初日の往路は読売新聞社前から箱根の関所まで、翌日は箱根からそれぞれ5人が襷を手渡しながら走り抜いていくが何といってもハイライトは小田原から箱根の関所まで往路の第5区だろう。実際にここは最重要区間で、急坂を人間とも思えないスピードで駆け上がる強靭な選手は見事そのもの!駅伝の最も感動する場面は襷を次の走者に渡した直後に倒れたり、抱きかかえられ、名誉のため全てを出し切った彼らは余りにも美しい。今年は本命の青学を破って東海が優勝したけれど、これも駅伝の歴史の一つ。人生も社会も宿命の波に揉まれて時間が流れる。数々のアクシデントを乗り越えて、ひたすらに走る駅伝を見て感動を覚える。

隠居の独り言 167

今年も間もなく終りで、来年には歳を取らなくてはならない。取りたくないと思っても、取らなくてならないのが世の定め。歳とは、未知の世界を歩むことで、本来なら祝福ものだが八十路とは山の尾根道のようで、滑落の危険が付きまとう。齢を重ねると心が僻みっぽくなり人を困らせることも多いが、そこは大目に見て欲しい。若い人からは年寄りの気苦労を察することなく邪魔者扱いをするが将来、君たちもそうなる。息子を装った詐欺に遭う年寄りは、しっかりしたつもりでも騙される被害は痕を絶たない。9月に駅の階段を踏み外し顎6針を縫い肩打撲の怪我をしたが全治一か月を要した。若ければ治りも早いが、情けないが身体は歳に勝てない。機械の部品が古くなれば傷むように、人間の部品も同じで老人の身体の衰えは必至で老々介護の試練も覚悟しよう。失うことが老いの形であり歳のことは言いたくなかったが、来年は86になる。といってどうすればいいか分からない。幸いにも最近の人間ドックの結果は殆ど健康体だったが、だからって寿命に関係ない。誰も、お迎えは100%だから、その最期まで健康の神さまとお付き合いを願っている。齢を重ねるごとに友人が減っていく。喪中葉書が増えて年賀状の数も減っていく。或いは「永遠の別れ」の友も、或いは「去るもの日々に疎し」の友も、時は非情なもの。最近までは年齢とは単なる符丁みたいに思っていたが、世の中は許してくれないし、人を頼りにしてはいけない。最近とみに報道される老人のウツ、痴呆、介護、孤独死、他人事じゃない。老人言葉は「どっこいしょ」「面倒くさい」そして「歳だから」という言い訳もみっともないからしない。命は神からの預かりもので必ずお返ししなくてならないが、男一匹、最後まで美学を持ちたい!

隠居の独り言 166

この頃は、どの家も何冊ものアルバムがあって家族の歴史が記録されている。その他PCやスマホに保管されどの時代の写真も即見られるようになっている。文明の発達は素晴らしい。昭和初期のカメラは貴重品で持っている人は滅多になかった。例え家にあってもフィルムや現像代が高価で気軽に撮れない。わが家に当然カメラは無かったが、ボクの写真は赤子のとき写真屋で撮った一枚と、5年後に家族の記念写真から一枚、その後は戦争だったから、幼年時代の写真は皆無で寂しい。子供の頃の記憶の頼りは写真なのに映像のない空白期間が、あまりにも長すぎて人生の初期の走馬灯の映像は消えている。思い出というのは何もかも懐かしく美しく蘇るものでないのは美しい思い出と同じく過酷な経験も同じ数が残っているからで転校生で苛められ家に言えず一人で泣いた少年も何時しらず記憶から遠ざかるが、時々蘇るのは頭の片隅から離れない。戦時中は大阪から福島県白河に疎開したけれど戦争末期に、三陸沖に停泊していた米空母から毎日のように米戦闘機がサイパンから来た米爆撃機B29の護衛のために白河上空を飛来し機銃掃射の恐怖に住民は森へと逃げたのは忘れない。しかし戦後の少年の思い出の最大は飢餓の体験に尽きる。農家でなかったので米を食べること叶わず何でも口にした。雑草を食べたことも、虫を丸呑みしたことも、鶏を絞め調理したことも、夜間に人の畑で芋や野菜を盗んだことも、思えば非常識なことだが食べる本能は人間の最たる欲望であり、空腹に口に入るものは何でもよかった。有難いことに日本の自然の四季は野や山に果実があり、海や川に貝がいた。今と違って衛生も悪かったが考えれば細菌からの免疫機能が備わって今の花粉症やアレルギーなど聞いたことがなかったし、現代の子供は肉が食卓に上がる過程は大人も含め知らない。今の子供は生きたトカゲやヘビを見るとキャーと奇声あげるが、蛇らも地球で暮らしている我々と同世代を生きる生物仲間で、まして生きる動植物を食べなければ人間は生きられないから生物を大事にしないといけない。まして食べ物の好き嫌いは宗教的な理由は別にしても、偏食、食べ残し、食品を捨てる、昔は考えられなかった食の冒涜に、きっと天罰が下るだろう。あれから数十年が経ち、惨めなことは忘れようと努めている。そして戦争、飢餓、貧乏、失恋、ボクの人生から断捨離したい。

隠居の独り言 165

最近「絶食系」という言葉があるらしい。絶食といって食事を摂らないことでなく所謂、結婚したくもできない「草食系」男の行きついた言葉で、昨今の晩婚化、非婚化を象徴している。草食系のみならずそもそも結婚したくない「絶食系」の若者が増えている世相だ。報道では異性との交際経験のない人や結婚を選択しない男と女が増加して未婚社会が進む現状で生涯1度も結婚しない「生涯未婚」の人が急増しているという。また別の調査からは「女性と付き合ったことが一度もない」と答えた20代の男性が35%女性も30%というから大差ない。若年の男性が草食化していると言われて久しいが女性への関心があっても自分からは積極的に動こうとせず女性から近づくのを待つという消極的男性が多いのも嘆かわしい。「付き合うのが面倒だ」「声をかけてもどうせ断られる」と消極的な「絶食系」は男性ホルモンの欠乏症なのだろうか。異性を求めるのは理屈でない。健全な心身の持ち主なら当然に行動に走っている。男性は自らを強く磨き、女性は身も心も美しくなるのは異性への憧れと本能の以外ない。最近は格差社会ともいわれるが男女間にも顕著に表れる。男女交際を楽しむ若者もいれば独り身の気楽な人もいる。少子高齢化の加速は必至だが医療費や生活保護費などの増加が懸念され国民の今の生活レベル維持が難しくなる。家族制の崩壊はもとより将来病気に罹れば誰もが医療が受けられないし生活に困れば助けてくれる制度も無くなる。一昔前の日本は「家」を守る見地から家と家の親同士が結婚相手を決め当人たちも素直に従ったが、それもない。子供の頃に小学校で教わった日本の人口は今の領土に換算すると約6000万人だったが自然が手近にいっぱい・今の約1億2000万人は狭い日本の領地では窮屈すぎる。絶食系による人口減少は良い意味の自然淘汰なのだろう。日本の将来の幸不幸は今の若者に託されている。